皆様こんにちは!!
講師の井上です(^^)
昨日今日と天気が良く、暖かいので、だんだんと春が近づいているのを感じますが、昼夜の寒暖差が激しいので、まだまだ体調管理には気を付けないといけませんね(^^;
本日、3月11日の10年前、東日本大震災がありましたね。
もう、10年経つんですね。
今回は、ちょっぴりまじめな話をします(*^^*)
10年前の今日、私は神奈川県相模原市で震災に遭いました。
当時、長男は習い事で近くのグラウンドで練習中だったので、コーチや仲間と外に居ました。
旦那は職場に居ました。
私と娘は家でテレビを見てました。
当初長男は6歳。娘は3歳でした。
家でテレビを見ていた娘に、『これが終わったらお兄ちゃんを迎えに行こうね。』
と伝え、テレビを見ていたところで揺れ始めました。
驚きながらも、ふと避難訓練の事を思い出し、
『あ!!出口の確保』と思いました。丁度窓際に居たこともあり、窓を開けました。
次に、ふと娘の上を見ると、照明の下に居たように見えたので、『こっちにおいで』と、娘を抱き寄せました。
液晶画面のテレビは前後にめっちゃ揺れていたので、右手で娘の方に手をまわし、左手でテレビを抑え、足で窓を抑えている状態でした。
ふと外を見ると、庭の木も揺れてるのが分かるし、ちょうど地震の為に停車していた車も揺れているのが分かりました。
とても長く揺れていた気がします。
横揺れだったかな?
とても長く感じました。
震度5弱でした。
それでも我が家の被害と言えば、浅い淵に立てかけていた物が一つ落ちたくらいで、大した被害は有りませんでした。
揺れが収まり、しばらくして ふと我に返り、
『あ!!お兄ちゃんの所に行かなきゃ!!』
と思ってテレビを消そうとした所で、テレビが消えている事に気が付いたんです。
そう。地震により停電していたんですね。
それに気づいた私は余計に迎えに行かなきゃ!!と、車で出かけました。
近くの小学校では、グラウンドに集まっていました。信号も消えているので、恐る恐る交差点も進み、息子の居るグラウンドに着きました。
着いてからも余震が有りました。
あんなに大きなグラウンドのライトが揺れているのも分かるくらい強い余震。
私達は無事に家に帰り、ご飯の準備をしようと思いましたが、停電しているためご飯が炊けないんです。
給湯器も着かないので、お風呂もおろせない。
そうこうしている間にパパが帰ってきました。
当時プロパンガスだった我が家は、幸いにもガスは点いたので、お湯は沸かすことができました。
ロウソクだけの暗い室内で、取り合えず子供たちにご飯を食べさせて、寝かせました。
情報を得るにも、ラジオしかなく、ラジオを聴いていると、どうやら東北の海沿いが大変な事になっていることを知り、映像で見たいけれど、テレビが付かなくて困っている時に、『そうだ!車でテレビが見れる!!』と気が付き、車に乗りテレビをつけました。
見た瞬間何が起きているのか理解するまで時間がかかりました。
どんどん波に飲まれていく・・・。
自然の驚異。
誰がここまで大きな津波を予想していたでしょうか。
東日本大震災は、震度も大きかったですが、津波の被害も大きな震災でしたね。
そして、原発の危険度も証明されたのではないでしょうか。
それにより一つの街が失われました。
東日本大震災は、本当に忘れてはいけない災害の一つ。
今後の世代に、戦争のように孫やひ孫にも語り継いでいかなくては話の一つ。
私がおじいちゃん、おばあちゃんから戦争の話を聞いていたように、私も語り継いでいく側になったのだと思います。
毎年、この日を迎えるたびに、改めて当時の事を話し、防災に対しての確認や対策を見直していきたいと思います。
長文になりましたが、お読みいただきありがとうございました。
震災により亡くなられた方々。
心よりご冥福を申し上げます。
そして、震災により残されたご遺族の方々。
残された命を大切に、心強く生きてほしいです。
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